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第2話 死んだら神様になる?-失神・神経の語源-

 “チィダラカヌシャマヨ”と合いの手がはいる安里屋ユンタいう沖縄民謡がある。本島人には、“死んだら神様よ”と聞こえるのも、そこになにか納得感があるからだろう。 もしあの世で、天満宮の菅原道真公と中国の古代医家が会話をしたとしよう。“私も神になりました”と菅原公。“違います。もう神はないのです”と医家。“いや功績が認められたから神にしてくれたんです”とこんな具合に、永遠にかみ合わないであろう。このように元来日本人のもっている神(カミ)と東洋医学の神(しん)とは、異なる考え方なのである。  現在神には、三つの用法があり混乱しているようだ。すなわち①和語のカミ。本居宣長は“(カミとは)優れて常ならざるもの”と述べている。古来、野球の神様のように、素晴らしいものをカミとしてきた。したがって、どこにでもカミはいるし、万物がカミになる可能性がある。八百万のカミである。②キリスト教GODの訳としての神。そして③中国思想由来の東洋医学の神である。  神字の示は祭壇、申は天空に伸びる稲妻を現す。神字は本来、稲妻のように超自然的な人知でははかり知れない力の意味であった。だが人を生かしている力こそ、最も神秘的であり不思議ではないか。後世、生命活動を行わせる大本、そして生命そのものを、東洋医学では神と呼ぶようになった。神があるから人は生き、神が無くなるから生命が終わると考えたのだ。失神とは生命が失われた事で、本来は意識障害を表す東洋医学の用語である。また神主とは中国語では位牌の事で、祖先の命が宿る場所からの命名であり、しんしゅと発音する。 神経もキリスト教関連からの訳語ではない。生命(神)を調節する道(経)の意味であり、解体新書の翻訳時につくられた造語である。東洋医学の概念から生まれた的確な用語だったといえる。外来語がはびこる現在、自らの言葉で考え理解しようとした先達の熱意と伝統文化の誇りを忘れたくないものである。  女神散(にょしんさん)という漢方薬がある。女性の生命力を高めるという意味で、産後ノイローゼなどによく使用される。出産のため心身共に疲れ果てながらも、子育てに「こころ」は異常に高ぶっている母親の薬である。「こころ」をおだやかにし(安)、体を滋養する(栄)働きより安栄湯ともいわれる。初めて我が子をだく母親は、本当に美しい。とすれば、すでに女神(めがみ)のような女性の薬ともいえようか。

〜平成25年5月2日毎日新聞掲載-「オットー博士のなるほど東洋医学」を修正加筆したものである〜

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